足利義尚(松岡昌宏)は葛川明王院で参籠し日野富子(三田佳子)が来て共に籠もり、森侍者(檀ふみ)と一休宗純(奥田瑛二)を弔ったと告げた、小川御所で足利義政(市川團十郎)が森侍者に会い一休が椿の庄の窮状を富子に直訴する積もりだったがもはや是非もないと聞き、義政は富子と義尚が戻る前に山荘に引きこもると告げ森侍者を誘い、10月に義政は洛北の山荘に移った。。
富子と義尚は戻り在所を譲られたと知り、富子は義政よりも義尚を選んだと告げ、1482年春に長谷山荘で義政は目覚め、森侍者と善阿弥(織本順吉)と吉阿弥(左右田一平)らが働き、東山山荘の襖絵の作者を話し森侍者は雪舟と言うと義政と同じで薪割りを頼み行うと、義尚と日野昌子(江口ともみ)夫婦が訪ね来て善阿弥は昌子は森侍者に似ていると言った。。
義尚は武芸に励み武家の棟梁を目指すと言い、義政は子は親を見て育つと言い自身が先代の反対を目指したが結果は大乱を起こしたと言い理想の将軍は自分の信じる道を歩むしか無いと言った、義尚が戻り富子に様子を告げると伝奏・勧修寺教秀(水野強彦)が来て内裏の修復を望み駄目なら移転を告げると、富子は猶予を頼んだ。。
骨皮道賢(ルー大柴)らが長谷山荘の様子を覗い、森侍者に会い話し蛍火(鶴田真由)は都に居なく椿の庄に居ると聞き去り、義政は吉阿弥から善阿弥が悪いと聞き見舞いに行き森侍者が笛を聞かせ義政は善阿弥に東山山荘の箱庭を語り会うと善阿弥は死んだ。。
1483年春に富子は伊勢貞宗(長森雅人)から、義政が守護大名に東山山荘普請料を求めたと聞き、内裏の修復が先と考え富子が長谷山荘に行くが対面が出来ず、富子は森侍者を見かけ帰った。
演出:小林武